■2019年5月の「絵てがみコラム」
 

最終日はバスでヒヴァを含む、ホレズム州の州都ウルゲンチへ。そこから国内線で首都タシケントへ。タシケントは広々とした道路に大きなビルが立ち並び、地下鉄もあるという。およそシルクロードの印象からかけ離れた近代都市だ。街路樹もとても手入れされ公園都市のように美しい! その美しい町の中でも格別に美しいナヴォイ・オペラ・バレエ劇場の前でバスは止まった。ここは私たち日本人と縁の深い所なのだ。
1947年に完成した1500人規模のオペラ劇場。今回特別に中も見学させてもらい、私たちのためにミニコンサートが開催された。内装も素晴らしく甘いバニラ色の内外装は今まで見てきた建築物とまるでタイプの違うものだった。昔、第2次世界大戦後シベリアからここウズベキスタンに強制的に移送され、働かされた日本兵がたくさんいた。厳しい環境の中、この劇場の建築にも多くの捕虜が駆り出され少ない食料を分け合って働いていた。でも地元ウズベク人も驚くほど、強制労働なのに日本兵はまじめに手を抜くことなく一生懸命働いた。その姿に感動して、見張りのソビエト将校の目を盗んで地元民が食料を差し入れしたりしていたそうだ。そんな立派な仕事の証として、タシケントを直下型大地震が襲ったときも、周りの建物はすべて崩壊したのに、この劇場だけびくともしないで残った。そこは震災の避難所となり、日本人の「いい仕事」はみんなに感謝され語り継がれた。この劇場の側面に大理石のプレートが英語と日本語とウズベク語で多くの日本国民が劇場の建築に参加し、完成に貢献したと記されている。独立当時の大統領が日本兵に敬意を表し強制労働とか捕虜とか、日本とウズベキスタンが戦争したわけではないのだから決してそんな言葉を使うな!と。町で出会う人々が日本人だと言うと、とても友好的に挨拶を交わしてくれて、一緒に写真を撮りたがる…その謎の回答がここにあるのかもしれない。
日本に帰国できなかった日本兵の墓地がある。私たちは最後にタシケントの日本人墓地にお参りした。ツアー参加者のみんなの目に光るものがあった。こんな遠いところに…帰れなかったんだね〜この人たちのおかげで今の平和があるのよね…こんな旅行者も笑顔で迎えてくれるのは、この人たちのおかげなのかもしれないね…。日本人墓地は当時から交流があったウズベク人の子孫が今もきれいに整備して墓守りをしてくれている。そこには日本から土ごと送られた桜の木が。葉桜が気持ちの良い木陰を作っていた。
初めてのウズベキスタン、とても良い旅でした。

さて、6月2日の肥後細川庭園「松聲閣」でのワークショップはこれらの旅で得た青と緑の間の色のインスピレーションをお伝えしながら墨と一緒にたわむれてみよう〜というテーマです。おかげさまで残席わずか、ぜひ参加してみたいという方がいらっしゃいましたらお急ぎください。詳しくはWhat's newをご覧ください。

 

 
 
 

朝の静けさとは打って変わって、日曜日の昼間、内城・イチャン・カラは世界中の観光客や地元の家族連れなどで大変賑わっていた。そこには20のモスクや20のメドレセ(神学校)6基のミナレット(光塔)など見るべきもののほとんどが集結している。
特に印象的なのは未完成の大ミナレット「カルタ・ミノル」直径14メートルくらいある塔の基礎部。さぞかし大きな塔になるはずっだったであろう、カルタ・ミナル(ちなみに、カルタとは短いという意味)1850年に着工して1855年に中断されたまま未完成だという。タイルがストライプのリング状に重なり、その色合いが何とも美しい。緑と青の間…サマルカンドのブルーに対して私にはやや緑寄りな色に思えて勝手にヒヴァ・グリーンと名付けた。
そして所狭しとお土産物屋のテントや屋台が並ぶ。おばあちゃんの手編みの靴下、スザニ刺繍のテーブルクロス、コーランを読むための木製ブックスタンド…素朴な手作りの品々が並ぶ。観光用のラクダがいたり、王様のコスプレをしたイケメンモデルさんが一緒に写真を撮ってくれたり…(私は撮影料5000スムをどうしようかな〜と思ってるうちに、希望者が多くて時間切れ! よく考えたら5000スムって日本円にしたら70円くらい! イケメン王様に70円をケチるな!^^;自分にダメ出しをしました。)
タイムスリップしたような、古都ヒヴァでの滞在もとても楽しいものでした。

 

 
 
 

ヒヴァの町は2重の城壁に囲まれている。私たちの泊まるホテルは外側の城壁を入ったところにあり、この地域最大規模の高級ホテルということだったが、2階建てのペンションのようなスケールで、お風呂のお湯にも茶色い土が混ざっていた。まだまだインフラは遅れているようだ。そのホテルの目の前に内城の城壁が迫っており、その内側がイチャン・カラと呼ばれ、1969年に博物館都市に指定され、1990年にユネスコの世界文化遺産に登録された。早くその内城に足を踏み入れたいな〜とワクワクしながら床に就いた。
早朝のモーニングコール! そうだ! このツアーの洒落たイベント。内城の高台に特別入場してヒヴァの日の出を見る! まだ真っ暗な世界遺産の古い町を歩く…少ない街灯にぼんやりと映し出されるその町は茶色い土の箱のようなものが並ぶ世界で、なんだか別の惑星を歩いているようだ…。城壁の門を見張る台に上る予定だったがそれは前日変更されたようで、そのすぐ近くのカフェの3階屋上テラスを解放して、そこで夜明けを待った。日の出は6時10分の予定。朝は冷え込んでいるが、ワクワクする気持ちの方が勝ってあまり寒さは感じない。しかし…なんだか雲が多い…いやな予感…。ちょっと重い空気を察してか、寒さを紛らわせるためか、長老が(今回のツアー最高齢89歳の元気なご婦人)炭坑節を踊り始めた。踊り方のコツを伝授したり、月が〜出た出た〜月があ〜出た!…って場は一気に笑いの渦に。「月じゃあないでしょ〜〜?!」と誰もが突っ込みを入れたその時、赤い太陽が暗いモスクや門のシルエットの向こうに頭を出した! さすが! 神がかってる〜!
ヒヴァの夜明けの記憶は炭坑節とともに…。

 

 
 
 

4月27日、次の目的地ヒヴァに向かう。今度は新幹線ではない空調弱めの特急列車のファーストクラスで、まったりゆったり6時間くらいの長旅だ。それぞれ乗客はおしゃべりに興じたり、日本から持参したおやつを食べたり、爆睡したり…外は延々と続くキジルクム砂漠…ラクダ草と呼ばれるブッシュが乾いた大地にへばり付いている。植林の名残りは見えるが立ち枯れている。ずっとずっと枯れた土地が続いている。時々ヤギや牛が、どこから来たのやら…。はるか向こうにトラックが一台走り去る…そんなちょっと退屈な景色を見ながら、私は時々カメラの中の写真を覗き込み、今まで訪れた所をスケッチをしたり。何にもない車窓の大半を占める青空を描いたりして退屈をしのいでいた。
移動も終盤「もうすぐ、アムダリア川です! みなさん! カメラの用意を!」その声に久しぶりに車内が活気づいた。カメラを構えて窓にへばり付いてみた。列車もスピードを落として期待が膨らむ。???え? 特別大きくもなく、きれいなわけでもないアムダリア川の横断はあっという間に終わった。「え? これ? この泥の河? なんか全然普通じゃん〜利根川か〜? 写真撮るほどでも…」思わず正直な感想が。あ! しまった! バカバカバカ! ウズベク人の通訳兼ガイドのドニさんの顔がちょっと悲しそうに曇った。おそらくこの列車旅のハイライトがこのアムダリア川、現にずっと小さな川さえ見ることなく砂漠が続いていたのだ。それに古に思いをはせれば、シルクロードを延々に歩いてきたラクダやロバのキャラバンはこの川の水にどれほど助けられて、ここを越えて行く隊商は次のオアシスを目指してどんな気持ちで旅立ったのか…。少し考えれば分かることだよね〜大事な川だよね…。反省…。
鉄橋を越えると景色はぐっと緑を増した。家々も増えて来た。目的地ヒヴァも近い。

 

 
 
 

シルクロードの面影が色濃く残ると言われる、ブハラの旧市街は2500年もの歴史を秘めたユニークなイスラム建築の宝庫である。モスクやメドレセ(神学校)、シンボル的なミナレット(光塔)、古代ブハラの発祥の地には7世紀女王フッタ・ハウトンがアラブと戦い、13世紀のモンゴルの襲来時に町人たちが立てこもったと言われる「アルク城」など。建物の、特にディデール好きの私には興奮の連続!
しかし、ブハラで語らなくてはならないのは「ハウズ(池)」だった。乾燥した大地、ウズベキスタンの中においてオアシスとして、多くの池があった水の都だったそうだ。池の周りには木々が茂り、チャイハネと呼ばれる青空喫茶で人々が集い、時には池で洗濯をして、キャラバンのラクダが水を飲んでいたのだろう。でも不衛生で疫病が流行り、200あったハウズは今では6個に。そのため池に虫や蛙がいなくなり、それを餌にしていたコウノトリが姿を消した。かわいい「チョル・ミナル(4本のミナレット)」はメドレセの門番小屋としてトルクメニスタン人の大富豪が建てたそうだが、その天辺に昔は大きなコウノトリの巣があった。今では名残りの?コウノトリと巣のレプリカが飾られている。
右の絵の「イスマイール・サーマニー廟」は中央アジア最古のイスラム建築として世界中の考古学者や建築家に注目されているそうだ。積み上げられた煉瓦だけの9メートル四方の地味な廟だが、その煉瓦の組み方がとっても凝っていて、箱根の寄せ木細工を思わせる。日差しの当たり方で凹凸のシルエットが美しく変化し、手前のハウズに写る姿が自慢だという。ここでも池の水がキーワード。簡単にオアシス…って言葉を使ってしまうけど、本当に本当に「水」が大切なのだろう。

 

 
 
 

サマルカンドで2泊した後、スペイン製の新幹線で1時間40分、ブハラ歴史地区丸ごと世界遺産のシルクロードの面影残すまち「ブハラ」に到着した。朝の空気はひんやり爽やか、でも昼間の日差しは強く、思わず木陰を探してしまう。ここでは観光の合間に、お買い物の自由時間が結構あった。ホテルの位置も素晴らしく町の中心部で、タキと呼ばれるバザールにも隣接していた。
とっても楽しみにしていた町だ。それというのもブハラは手工芸の町として知られ、特にスザニと呼ばれる手刺繍は、昔から独特な色や模様で娘の嫁入り道具として歴史のある伝統工芸として知られているのだ。春先に東京でのこのウズベキスタンのスザニについての勉強会に参加したりして、本場で見ることを楽しみにしていたひとつなのだ。 大好きな柘榴の模様がここでも特に吉祥な模様として私を誘惑して来る。バザールは昔ラクダやロバに山積みにした品々を東西の商人たちが荷を下ろし、交換したり、商ったり…天井の高い小さなドームがいくつも重なり合ったような独特な形をした市場で雰囲気を盛り上げる。少し高台からその建物を見ると、まるでたこ焼きの鉄板を裏返したような、ぼこぼこ丸いユニークな形をしている。
そんなバザールで一目惚れしたスザニの小さなバックを買った! とっても手が込んだものだ。意外に高くて悩んだけれど誰かが言った。「物欲があるって若い証拠よ、断捨離して終活終活!っていう連中ばかりで…嫌になっちゃう! それは年寄りってことよね!」おほほほ! そうよそうよ!(今回のこのツアーで私が最年少!)
ついでに一目惚れした陶器の菓子入れと小皿も。手荷物で抱きかかえて帰ってきた。ぽってりといい味わい、お土産物の器たちとは一線を画すように思えた。眺めているとお店のお兄さんが近くにギャラリーがあるからと奥まった薄暗い倉庫のようなところに案内された。一人だったら躊躇われたけど二人でついて行ってしまった。そこはギャラリーというより工房と倉庫を兼ねたような所でキャ〜〜と思わず叫ぶほど一杯の器たちが所狭しと積まれていた。一目惚れしたその菓子入れと同じ手によるものと思われる皿などをチョイスしてモーニングプライスぷり〜〜ず!としっかり値切った。朝一番のお客は縁起物だから、ね。おじさんはしきりに器の裏のサインを示して渋ったけれど2割以上安くしてもらった。帰国して調べたらブハラの近く、ギジュドゥヴァンと呼ばれる地域の陶器の博物館も持っているような著名な作家物だったようで…値切ってごめんちゃい! これだから旅の一目惚れはたまらない!

 

 
 
 

あまり知られていないが、イスラム建築の世界における中央アジアは14世紀から15世紀、質と量で圧倒的な輝きを放っていたと言われる。イスラム化が進んだ7世紀〜モスクや霊廟、宮殿やキャラバンサライ(隊商宿)など、用途に合わせた栄華を反映した建築物が多くつくられたが、チンギス・ハーンによって中央アジアは徹底的に破壊された。特にサマルカンドは町の人口の4分の3が殺され、アフラシャブの丘は無人の荒れ地と化した。その後、大帝国の覇者ティムールが台頭し、町は見事に蘇った。彼が手掛けた建築物は素晴らしく、今多くの観光客を魅了している。
今回特に楽しみにしていたのが、そのアフラシャブの丘の傾斜に残る「シャーヒズインダ廟群」ティムールゆかりの人々が眠る霊廟群で中央アジアでも屈指の名所と言われている。その霊廟を飾るタイルが素晴らしいのだ。タイル好きにはたまらない! 釉薬が掛けられているものは色を失わず、今も当時の色を伝える。釉薬浮き彫りになったテラコッタや絵を描いたマヨルカ焼き、そして気が遠くなるほどのモザイク。霊廟の入口はもちろんの事、天井もぎっしりと工夫を凝らしたタイルに覆われている。模様はイスラム装飾特有の文字模様、幾何学模様、植物模様の3種が主で、特に蔓草模様はいわゆる「アラベスク模様」、エンドレスな連続性がイスラムの楽園思想に繋がっていると言われている。そんなため息しか出ないようなタイル、タイル、タイル! 凄すぎるのだ。
6月と7月のワークショップの詳細をWhat's Newにアップしました。ウズベキスタンで浴びたサマルカンドブルーを、大いに生かしたいと思っています。一緒に楽しみませんか?
次回の絵手紙コラムはサマルカンドからブハラの街に移動します。

 

 
 
 

まずは、ウズベキスタンの基本情報を少し。中央アジアの2重内陸国(海に出るために少なくとも2つの国境を越えなくてはならない国、現在世界でリヒテンシュタインとウズベキスタンのみ)シルクロードの交差点…その言葉だけで漠然と白い布をまとい、ラクダとともに歩く姿を思い描く。1991年旧ソビエト連邦から独立。面積は日本の1. 2倍、国土の大半はキジルクム砂漠に覆われている、金や天然ガスに恵まれているそうだ。人口は3300万人、国民の6割は若者で、男は28歳女は25歳くらいまでにほぼ100%結婚して(7割くらいはお見合い、紹介結婚だそうで…)5人くらい子どもがいるのが普通だそうだ。(通訳兼ガイドのドニさん談)
何だか若々しい国で…ちょっと眩しい。物流の交差点ということは人種も入り乱れていて、ロシアっぽい色白美人もいれば、アラビアンな雰囲気のお兄さんも。親しみやすいモンゴル、中華系、そして日本人にもそっくりな顔立ちのおじさんやおばさん、気軽に話しかけてくる。とても日本人に友好的でやたらと一緒に写真を撮りたがるのだ…不思議。日本語を習っているという若者もとても多い。特別友好的な理由は最後に述べることにしよう。公用語はウズベク語、ロシア語、観光地では英語も通じる。通貨はスム。30USドルを両替すると札束になって帰ってきた。このご時世クレジットカード決済は絨毯屋しか使えないなんて! 流石、シルクロードの商い、現金主義なのね!と妙に納得。
絵手紙の方はサマルカンドで頂いた食事の一部を描きました。全体に食べやすく、日本人の口に合う、マンティという中央アジア風餃子…というより、味はシュウマイ。辛子ではなくサワークリームが添えられていた。(ツアー添乗員さんはすかさず、醤油とポン酢をもってテーブルを回っていた。)ラグマンといううどんは、野菜たっぷりの薄めのミネストローネスープの中に刀削麺という感じ。必ずサラダも登場するが真っ赤なビーツが印象的。ゆる〜いイスラム圏ということでビールやワインもOKで、アルコールを飲まない私はもっぱら、柘榴ジュースやさくらんぼジュースで乾杯だ。

 

 
 
 

ウズベキスタンの首都タシケントには週に2便ほど直行便が就航しているが、今回は日本の旅行社4社で共同チャーターしたサマルカンドへの直行便が魅力的と感じ、珍しく友人と中部国際空港セントレアからのツアーに参加した。
日本から9時間ほど、天山山脈などを眺めながら初めての中央アジアの国ウズベキスタンに降り立った。数年前から興味を持って色々調べていた。イスラム建築のすっごいものがたくさん残っていて、刺繍や民族衣装的なテキスタイル系の魅力あるものの宝庫で、まだあまり知られていない秘めたる謎の国…として。2年前にビザが不要になり観光客の誘致に国を挙げて頑張っている様子が漏れ伝わってきていたのだ。足の便がまだ不確かでフリーで訪れるのはまだ無理かな〜と思い、いろんな旅行社のツアーを見比べ「今」面白そう!と実行。想像以上に発見いっぱいな楽しい旅になった。
さてさて、いきなりのかわいそうな雨だが、夕刻には上がりうっすら日が差してきた。ウズベキスタン観光省主催の歓迎プログラム「サマルカンドの夕べ」と題した踊りや民俗楽器の演奏、民俗的なお芝居が広場の神学校のお庭で、そして日没後これらの大きな建物に映し出される幻想的な「音と光のショー」。盛大な歓迎を受けることとなった。

 

 
 

嘘でしょう〜! 真っ青な空にターコイズブルーの半球体のタイルの屋根がピカっと光って、大きな3つの神学校に囲まれたサマルカンドのシンボル、レギスタン広場の真ん中に立ち尽くす自分を、すっかり思い描いていた。しかしあまりにも残念な雨! 典型的な大陸性気候で夏はとっても暑く、冬は寒い。乾燥していて4月の降水量は東京の半分、そんな中央アジアのウズベキスタンを8日間旅して、平成の最終日に無事に帰国しました。
ウズベキスタンに行くと言ったら、大体の人がそれどこ?なんで?何があるの?と聞く。そして何とか〜スタン…ってところは危なくないの?…と。スリランカでも大きなテロがあったばかりで、本当に安全なところなど世界中どこにもないのだろう。絶対大丈夫なんて言えないけれど、帰国してみて私が体験した限りでは、今まで行った国の中で一番穏やかで安全そうで友好的な素敵なところでした。
そんなウズベキスタン旅行のお土産話にしばしお付き合いください。

 

 
 
 

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